円光院の由緒

瑞巌山円光院(臨済宗妙心寺派)は甲府市の北東に位置し、春花秋月の美しさと展望に恵まれた躑躅ヶ崎(つつじがさき)の東にあります。当山を創建した武田信玄公は、山囲むこの自然環境そのものをもって自らの境涯を示しました。

信玄公は元より仏法信仰を重んじ臨済宗に帰依し、京都妙心寺の開山である開山国師の遺風を崇敬しておりました。その因縁により、京五山、鎌倉五山にならい、甲州の古刹の寺を城下に移しました。そして何れも妙心寺派に改め、それぞれに土地を寄付し、これらの寺を御城附御祈願所五山と号しました。現在は別名甲府五山と称し、円光院、東光寺、法泉寺、長禅寺、能成寺であり、何れも武田親族の菩提寺になっています。

円光院は元々、信玄公の先祖・逸見太郎清光の創建(保元年間)で、清光院と号し、小石和(現在の笛吹市石和町)にありました。後に武田信守が、父・信重の牌寺として成就院と改めました。さらに永禄三年(1560)信玄公が、京都より説三和尚を迎えて開山とし、当地に移しました。

現在の寺号の起こりは、信玄公正室三条夫人が元亀元年(1570)7月28日に逝去し、当院に葬送された時の法名から、瑞巖山円光護持禅院と改称されました。

天正元年(1573)4月12日、信玄公は信州の駒場にて53歳の生涯を終えました。そして武田家滅亡後の当院は、武田の家臣を祖先とする平岡氏累代の菩提寺となっています。

当院は、延享3年(1746)惜しくも伽藍を焼失してしまいました。最近まで実存した伽藍及び庫裡は、直後の宝暦年間(1751~1760)に平岡代官(当院の書院にある木座像)によって再建されたものと推定されます。そして、現在の本堂は昭和52年に再建され、庫裡は平成11年に大改修いたしました。


由緒 由緒 由緒
信玄公正室 三条夫人

三条夫人は、大永元年(1521)に公家・三条左大臣公頼の次女として、京都三条邸に生まれました。母は高顕院、姉は細川晴元夫人、妹は本願寺(一向宗)光佐(顕如)上人の裏方(如春尼)です。

天文5年(1536)7月、16歳で駿河の今川義元の媒酌で武田晴信(信玄)公の正室となりました。信玄公との間に長男義信・次男竜芳・三男信之・長女黄梅院(北条氏政夫人)・次女見性院(穴山梅雪夫人)を生みました。

元亀元年(1570)7月28日、信玄公に先立つこと3年、50歳でその生涯を閉じました。


三条夫人
武田信玄公墓所

天正元年(1573)4月12日、信玄公は信州伊那の駒場の陣中にて、53歳で逝去されました。死は3年間秘密にされましたが、その間ひそかに荼毘だびに附され、埋葬されたのが、当院にほど近い土屋右衛門の邸でした。この場所は後の安永8年、代官中井清太夫によって発掘され、今に残る「法性院大僧正機山信玄之墓」の墓石が建立されました。

その事情を記した碑陰銘は、当院の円光院住職愚応和尚が謹誌したものです。以来4月12日の忌日の廻向そのほか供養は、当院で行っています。


三条夫人
刀八毘沙門天・勝軍地蔵尊

信玄公が軍陣の守本尊として城内毘沙門堂に安置したものです。右が刀八毘沙門天で、三面十臂じゅっぴ獅子に乗っています。左が勝軍地蔵尊で、錫杖しゃくじょうを持って白馬に乗り、鎧の上に二十五条の袈裟(通常は七条)を掛けています。

天正元年(1573)4月12日、信玄公が陣中にて亡くなった時、これらの二体は武田二十四将の一人馬場美濃守信春に遺命され、当院に寄贈されました。


毎年4月に行われる「信玄公祭り」にあわせて御開帳されます。


刀八毘沙門天・勝軍地蔵尊
円光院青壮年部

臨済宗妙心寺派の教義を信奉し、円光院青壮年部の事業、布教活動に協力並びに会員相互の親睦と進歩向上を図ることを目的として、平成7年9月3日に設立されました。


主な事業内容

円光院青壮年部の行う行事活動への参加協力。

社会に役立つ奉仕活動への参加。

毎月定例会を開き、会員同士の連帯、研鑽を深める。

親睦と進歩向上を図るため、研修会、親睦会等を実施する。

円光院青壮年部

主な参加行事

4月 花まつり 焼きそば、おでん、甘茶での接待、講演会、演奏会の実施
7月 お施餓鬼 かき氷での接待、講演会、演奏会の実施
12月 除夜式 年越そば、甘酒、お餅での接待

その他

定例会 講師を呼んでの学習会と親睦会

家族ボーリング大会 年2回

研修旅行 春又は秋



会員募集中! 檀信徒の皆様の入会をお待ちしております。


臨済宗妙心寺派 瑞巌山円光院 〒400-0013 山梨県甲府市岩窪町500 Tel. 055-253-8144 Fax. 055-253-8244